ことばって何だろう―『ドライブ・マイ・カー』を観て

村上春樹原作という『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督・脚本)を観た。(ネタばれ注意)

村上春樹の小説は私にとっては難解である。
この前『騎士団長殺し』を読もうと思って人に借りたが
はじめの数ページでその物語に入っていくのに難儀し、つまずいた。
数か月おき、又トライしてようやく小説の中に入っていけた。
不思議な展開に頭は疑問だらけであったが、その世界にぐいぐい引きこまれていき
読み応えがあった。
そこで今回の『ドライブ・マイ・カー』も観てみようと思った。
騎士団長殺し』でも主人公がドライブする場面が沢山出てくるので
余程「ドライブ」に思い入れがある作家なのだろう。

 

演出家の家福悠介(西島秀俊)が広島で演劇祭を行うためにオーディションをする。
そのオーディションに集まったメンバーは国際色豊かである。
外国語OKだからである。
日本語と外国語が併存する舞台のオーディションで一番心に響いたのは
ろう者の演技である。字幕や通訳の言葉もあったと思うのだが
その表情、手話に思いがこもっていて
とにかく心揺さぶるものがあった。

こうやってみると、ことばって何だろうと
思うのである。

言葉、ことば……。
日本語で話していてもそこに「心」が入っていなければ
形だけの表面的なものになってしまい、心が通じない。

外国語や手話であっても、怒ったり、泣いたり、その表情を見れば
本当に言いたいことが伝わるのではないか……。

演劇祭の家福のために雇われた渡利みさきというドライバー(三浦透子)も
家福も最初はお互いに硬い表情……。

自分の殻に籠っている者同士。
業務上のことばだけでしばらく過ごす車中の二人。

 

しかし、韓国人のコーディネーター(?)の夫婦である家に招かれた二人は
夫婦の温かいもてなしによって心が開かれていった。
その一人はあの、オーディションを受けていたろう者の女性である。
ここでも、音のある「ことば」は発することは妻は出来ないが
手話があり、表情があり、夫婦には愛があった。
夫の優しい笑顔、妻の発する手話、表情、感情を読み取ろうとするお互いの愛情があった。悲しみも乗り越えてきた二人……。
音の会話はないけれど、夫婦二人にはちゃんとコミュニケーションがとれている。

家福、渡利みさきがこの家から出るときは
運転される者、運転する者という関係から
生身の人間としての言葉が交わされる関係になる。

 

一見無表情な二人であったが
そのあとは少しずつ歩みよる。
傷ついている二人はことばを軽々しく発することが出来ない。
しかし、たどたどしい言葉であっても交わし合って
自分の思いを伝えないとわかってもらえない。

それは死んだ妻にとっても同じこと。
うわべだけ取り繕ってしまう夫婦よりも
子どもを失ってしまった現実によって深く、傷ついている夫婦は
お互いの心の悲しみについても
十分に向かい合うことが大切だったのであろう。

 

劇中劇『ワーニャ伯父さん』のソーニャのセリフ、ことばが
主人公、登場人物の心の声を代弁している。

――仕方ないわ。生きていかなくちゃ。……
  ……いつかその時が来たらおとなしく死んでいきましょう。
  最後の最後で神様に 苦しかったって言うの。
  そうしたら神様は私たちを憐れんでくださって……
  美しい暮らしができるんだわ……
  そうしてわたしたちやっとほっとできるの。――

 

『ドライブ・マイ・カー』……自分を運転する。
悲しみを抱えながらどうにかやり過ごして自分の人生を運転する。
……自分の人生を全うしていく。